素敵な原田真二ワールドに出会ったのはまだ中学生の頃で、1977年でした。
ただ自分の周りのことだけに流されていた時代に
原田真二さんがデビューをされて、
当時のテレビを通して真実や愛や社会の矛盾を訴えていた姿は、
中学生のわたしには、歌だけ歌えばいいのにとか、
社会の矛盾なんてどうでもいいのに、
なんで個人がそこまでこだわるのか、当時はわかりませんでしたが、
原田真二さんがパフォーマンスする様々な既成概念を壊すところは
面白いミュージシャンという印象でした。
また素敵なピアノの弾き語りで
ティーンズブルースやキャンディーを歌う姿にブラウン管を観た瞬間に、
恋に落ちました。
お洒落なスタイルも音楽もルックスも大好きでした。
これは当時は、社会現象でもありました。
ちょうど新御三家と言われていた、
郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の後のアイドルで、
新御三家とか、ロック御三家とか、ニューミュージック御三家として、
原田真二さん、世良正則さんのツイストと、チャーさんの3人が
そう呼ばれていました。
伝説のトリプルデビューという言葉をきかれたかたも多いと思いますが、
それは当時は山口百恵であっても、どんなアイドルであっても
デビュー曲は1曲であったのに
、原田真二さんの音楽的な才能があまりにありすぎたので、
ティーンズ・ブルース、キャンディー、シャドー・ボクサーを
毎月1曲ずつリリースしてデビュー曲が3曲あったということなのです。
それが全て当時のTHE BEST10という
黒柳さんと久米さんの司会のチャート番組に
10位の中にチャートインしてしまったのです。
この記録はギネス級で、
後にも先にもトリプルデビューをした歌手もバンドもいないと思います。
また、原田真二さんは
それまでのフォークやグループサウンズがテレビ出演を拒否したことに対して、逆に積極的にテレビに出演したことにより、
ロックやニューミュージックのバンドなどが
テレビ出演をすることになった功績は大きいということです。
また衣装も自前であったり、
発言も自由にしたり、
物をいうアイドルとして注目もされたし、
逆に生意気にも取られてしまったみたいです。
そして、それまでの歌手は
番組が用意をした生オーケストラで歌うのが当たり前でしたが、
原田真二さんは自分のバンドでテレビで歌うことにこだわっていて、
その功績も大きなものがあると思います。
原田真二さんがスタジオに入っていきなり、
モニターはどこですか?と質問をして
スタッフが呆れてしまったのは有名な話です。
それまでのアイドルやタレントが
いかに言われたとおりにして歌うお人形さんであり、
作られたアイドルであったかがよくわかります。
一度原田真二ドリフ騒動というものがありまして、
原田真二さんがドリフの8時だよ全員集合に出てはみたものの、
途中で「僕はお笑い芸人じゃない、ミュージシャンだ!」
と怒って帰ってしまったということがありました。
これは、かなり当時は問題にされていました。
いわゆる生本番に、大穴をあけてしまったからです。
最初はいた原田真二さんが、
あの少年少女合唱隊にはいないのです。
しかも、長さんが、今日、一人帰っちゃたやつがいるんだよ、
と言っていました。
これはマネージャーが帰るぞ!と言った説と、
本人がやってられないと帰った説がありましたが、
最近のライブで原田真二さんが、
オンエアの当日は、びびりながら、
バンドメンバーを集めてテレビを観ていた、といいました。
新聞にもゲストで原田真二さんが掲載されていますし、
やはりそのゲストが誰かによって
ドリフの番組の視聴率も左右されてしまうので
かなり後から焦ったそうです。
しばらくそういうことから新聞やマスコミ全体を
敵に回すことになったと思いますが、
やはりマスコミ自体が
原田真二さんをアイドルやタレントとして捉えていたけど、
本人はニュージシャンでいたということのズレみたいです。
またデビュー当時からマスコミに媚びることがなく堂々としていたので、
生意気の代名詞にされてしまったようでした。
若い人がいきなり才能を発揮しにくいのは、日本の社会の悪い風潮です。
出る釘は打たれるということです。
原田真二さんは最初はプロモーターに
アイドルとして売られてデビューをしてから、
自分で自分の売り方の軌道修正をした珍しいミュージシャンです。
アイドルではないとしきりに発言をしたりしながら、
生意気の代名詞になっても、
クライシスというバンド活動を貫いていった和製ビートルズです。
私自身は、全く新しい音楽スタイルや素敵なLOOKSにも憧れていた
普通の中学2年の乙女でしたが、
その当時は、それまでのアイドルやタレントさんは、
あまり自由に発言をしたりすることはありえなかったし、
音楽性のあるミュージシャンが何か発言をしたとしても、
馬鹿にされるだけでした。
バンドやロックやバイクが不良にされていました。
そういう意味ではあの矢沢永吉さんも、
当時はかなり吠えていましたが、
やはりギターやロックやライブやバイクイコール不良でしたので
世間は相手にはしていないどころか、馬鹿にされていました。
でも、音楽には自由があり、
当時も若者の思いをぶつけていくのはフォークであったり、
ロックであったりニューミュージックであったりの音楽でありました。
大人たちはそういう若者を怪訝な顔をして、
社会という体制の中に押し込もうとしていました。
それに対して反対の運動をしていたのが
1960年代の安保の学生運動の頃で
当時は学生運動が盛んで都心を車で走っていると
急に通行ができなくなって、デモというものが横行していました。
今の50代の世代の方々でした。
私の40代の世代は学生運動の後の無気力時代と言われた
やる気のない学生が多い時期でした。
みんなが決められたように、大学に受験をして、大企業に入るということが
当たり前で、女性は寿退社をして、永久就職をして、
結婚して子供を産むのが当たり前でした。
女性の結婚も25歳はクリスマスといわれ、
それをすぎると31までが大晦日などと言われてしまい、
親同士も競って娘を嫁がせることに夢中でした。
それは親の見栄でもあったのかもしれないし、
子供を産んで母親になり、家庭に入り主婦になるのが
女性の王道と言われていた時代でした。
だから、いつまでも会社で働いていれない環境でもありましたし、
逆に今の女性は働きながら結婚をしても働いていけるので、
羨ましいと思います。
女性の社会進出が欧米化並になってきたのです。
原田真二さんがデビューしたその当時は、わたしは
高校受験を控えていましたが、
受験は決して面白いものではなく、
友達が「FEEL HAPPY」コンサートという
最初の全国ツアーライブのチケットを取ってくれたので
横浜県民ホールまで追いかけにいきました。
これが始めての追いかけ体験でした。
時々追いかけというと、嫌な顔をされますが、
追いかけは決して悪いことではなく、
人に迷惑をかけずに夢を追いかけるいいことです。
友達がやっぱり早くに行って入るのを観たいということで、
わたしもお昼過ぎに県民ホールに到着して
始めて入り待ちというものをしましたが
ピンクのハッピ軍団のお姉さまたちが張っていた場所と反対側の場所に
たまたまいたときに、そこから歓声があがって、
とっさにダッシュしていってその車を覗き込むと
深くシートに沈みこんだ原田真二さんがいました。
原田真二さんはシートに沈んで隠れていました。
私は足が速かったので実際にその車に到着して覗き込んで見ました。
でも、その車が来たのは一瞬の出来事で
キャーと言った人もちょっと真二さんをみかけたくらいで、
実際にその車を覗き込む場所まで行って見れたのは、私だけでした。
それくらい偶然にいた場所へ真二さんの車が入ってきたので、
また確か記憶によれば表口じゃなくて裏口みたいなところから
入っていったみたいでしたので、
その後でピンクのハッピ軍団のお姉さまがたに確保されました。
彼女たちは裏をかかれたととても悔しがり、
でも、そのことでとても仲良くなって、
お姉さんたちは全国を追いかけているということや、
原田真二さんのことで盛り上がっていました。
わたしも当時はこんな風に友達にすぐになれたことも嬉しかったし、
お姉さまたちは1階のすごく前の方の席でした。
前の方の応援隊はすごかったです。
わたしは3階の前から8番目でもう後ろから確か2列目くらいで、
幸い中央でしたが真二さんは遠くて、
近くのファンがオペラグラスを貸してくれたりしていました。
でも、悪いから遠慮してると、いいからとかなり長い間貸してくれたり、
当時から原田真二さんのファンはとても優しかったです。
最初のミラーボールが下がっ
てきて、
イントロが始まってから始まったコンサートが、
パワフルでレコード以上のものがあり、
当時から真二さんのトークも大変面白かったです。
北海道に行って外で立ち○○○をしたら、
ツララになったとか、鼻水がバリバリに凍ったとか、
あのルックスで人気の真二さんが話す楽しいトークに
全力で弾いて歌うライブは当時から、今も変わっていません。
途中で楽器が壊れるかと思うくらいで、
そういえば当時はよくライブで
ミュージシャンがギターをぶっ壊してしまうってことがよくありました。
真二さんもステージの上でピアノを破壊してしまう勢いで、
確かあの後の何かのライブでギターを壊したと聴いたような気がしますが、
ロックバンドのアーティストはよくステージでギターを足で挟んで2つ折りにして、
バリって壊すのはよくやっていたように思います。
弟が矢沢永吉さんやハウンド・ドッグさんやいわゆるその辺のロックアーティストのライブビデオをよく家に持ち帰って見ていまし
たが、
あのギターをバリって折るのは見ていても面白かったです。
中にはライブで3本くらい折ってしまって、予備のギターがなくなって、
ライブが中止になってしまったり、メチャクチャで、
そんなところが観ていても楽しくて、
特にロックバンドのライブというと、矢沢永吉さんのキャロルライブなどは、
興奮したファンが騒いでニュースになってしまったりして
無茶苦茶やってるところが子供から観れば大変愉快でした。
ファンが将棋倒しになってしまったり、
興奮して騒動やニュースになることも多く、
大人は怪訝な顔で見ていたようでした。
矢沢永吉さんも、
日本のロックシーンに熱い情熱を注いだやはり先駆者で
原田真二さんのデビューより2〜3年前にデビューして、
「時間よ止まれ」でソロでヒットしましたが、
キャロルというバンドからソロになって、
キャロルの解散コンサートライブのビデオを見ると
そこにはかっこいいバイクに乗った若き頃の
館ひろし、さんや岩城晃一さんが映っています。
当時はバイクとギターとライブが不良の代名詞でしたが、
館ひろしさんや、岩城晃一さんなどのかっこいいタレントさんも
やはり、矢沢永吉さんの追いかけで、
当時はわたしたちはそれぞれ音楽を通して思想的なリーダーを持
ち、
時代の歌を聴きながら時代と共に育ってきました。
私はそういう意味で、矢沢永吉さんも大好きなので、
ファンクラブのプラチナメンバーになっていまして、
一昨年やっと矢沢栄吉さんのライブデビューをしました。
皆さん、とても礼儀正しくて
マナーもよくステージには迫力があり、素晴らしかったです。
矢沢永吉さんも原田真二さんもそれぞれが、
未だに30年近く現役のアーティストとして
オリジナルな活動をする大御所ですが、
当時はただのバンドマン、歌手という扱いで、
やはり自分の道をひたすらに進んでいく姿や活動や
継続していくパワーはすごいと思います。
矢沢永吉さんは一昨年で30周年を迎えて
原田真二さんは確か昨年が30周年目です。
同じく今年はロック御三家といわれていた、
チャーさんや世良せんも30周年でした。
チャーさんはすでに今年30周年ライブを渋谷AXでしましたが、
弟の話ではチャーさんがもっと聴きたいだろう??といいながら、
なんとアンコール15曲にファンもへとへとになったということでした。
昨年の夏には渋谷DUOにて、
世良正則さんと原田真二さんがジョイントライブをして、
YUKOも世良正則さんを初めて観て、よっちゃんもサイドギターでいた
ギルト9というバンドの迫力には圧倒されまして
アルバムを買って、また世良さんのライブも観にいきました。
やはり時を掴んだ人にはオーラや迫力があります。
本当に、音楽をやってる、そんな印象をあの頃のロック御三家から受けました。
あの頃のアーティストにはパワーがあります。
いまでこそ、誰でもCDが出せて、歌手デビューはできますが、
あの頃のプロは選ばれたプロでスターでした。
それは本物だったから30年間輝き続けていけたのです。
彼らは元々持っているものもあったけど、
それプラス努力と諦めない姿勢がありました。
今でもとても尊敬しています。
さて、話は原田真二さんに戻りますが、
当時はあまりにもかわいかったので、
オーディションをした吉田拓郎も
女の子だと思って採用してみたら男の子だったというくらいで、
周囲もあまりに可愛いので
最初はアイドルとして売らないと損だと思ったのでしょう。
本人はそれに対してはとても抵抗があったそうですが、
逆にアイドルとして売りたくても
それに伴う天性のルックスがある人はそうはいません。
当時は歌を聴いて欲しくても、
キャーキャー言われて聴いてもらえなくて怒っていたそうで、
でも、いつからか、キャーキャー言わせるのが楽しくなってきたといいます。
NHK夢音楽館で、
司会の桃井かおりさんが当時のことについて語っていましたが、
桃井さんが当時の原田真二さんを渋谷かどこかでみかけたそうで、
原田真二さんは車に乗っていて、
孤独な表情で他を寄せ付けないような長いまつげをしていたと言ったときに、
それはそのまんま当時の心境だとおっしゃっていました。
そういえば、当時は真二さんが憂鬱そうにテレビに映っていたり、
アイドル扱いに対して発言をしたりしていたことがマスコミに叩かれていました。
当時はタブーだったマスコミの中でのマスコミ批判に
世間は驚いていた感じでした、と同時に
生意気だというイメージがかなり浸透して
所属会社のフォーライフさえ、
レコード屋さんから原田真二のネームプレートを撤去してしまい、
それに対して原田真二さんが、
あまりにそれはひどすぎるということでフォーライフを辞めたそうです。
今思えば長い長い原田真二さんの苦悩である
レコード会社移籍問題はここから始まりました。
いい音楽を書いても
積極的にリリースしてくれるレコード会社が定まらない、
もしくはない状態でも、音楽家としての道を歩みながら
作品をリリースしなければいけなかった、
原田真二さんの苦悩の始まりでした。
音楽業界を敵に回したのです。
でも、それは大変に男らしいと思います。
自分の信念を曲げなかったことは素晴らしいです。
今、やっとSHINEという
自主レーベルを立ち上げてきた道のりを思います
それはアーティストにとって作品を発表する場がないということで、
私自信もニットをするので、自作の作品が誰の目にも止まらない、
あるのに見てもらいない状況はしんどいものがあったと思います。
そういう状況下ではアーティストとしての創作意欲さえ消されてしまいますし、
そうなって作品が作れなくなってしまうと、信用もなくなりますし、
結局は忘れ去られてしまったり、久しぶりに作品を発表しても、作っても
なかなかそれがいい作品にはならないものですし、
あのトリプルデビュー以上を常に原田真二さんは求められてしまうので、
「アーバンエンジェルズ」も素晴らしいコンセプトのアルバムなのに
セールスが伸びないのは、原田真二さんへの期待の大きさや、
マスコミ側の一歩的な報道によって作られてしまった、
原田真二さんの虚像がそうさせるのではないでしょうか?
私はマスコミが作り上げる虚像で人生を苦しむなんていう馬鹿げたことには
断固として反対します。
マスコミはマスコミを叩くものがないから、
ワイドショーや週刊誌などで嘘も並べて、
視聴率や、新聞や週刊誌の売れ具合が上がればいいとします。
昔からブンヤといわれて世間では嫌われています。
私の場合はニット界でプロになると思ったのは
かなり小さな頃でどこかの卒業文集にも手芸クラブに入っていて、
将来編み物の先生か美容師の先生になりたいと書いてあります
だから頑張って3年半の間ずっと通勤電車に大きなスポーツバッグを抱えて
ヴォーグ学園に通い半期に4作品を提出してきました。
いわゆる音楽でいえばそれがデビュー作なのですが、
未だにあの頃の作品を越える大作は編めていないし、
資格を取るという目標に向かってひたむきに編んでいたパワーも
卒業後には全くただの手編み講師の資格を持っているというだけで、
要するにスポンサーや信用がありません。
それでHPをコツコツと作ってみたり
それこそできる限りのことはなんでもしました
HPからオーダーを取ったり、
知人からオーダーを取ったり、
ボランティアでセーターを編む指導をしたり、
海外の子供たちに編んで送るプロジェクトに参加したり、
やっと小金ができればYUKOKNITHOUSEの刺繍ネームタグを注文したり
地元の夏祭りで展示をしたり、
編み物だけは諦めないできました。
やめることは簡単なのです。
私にとっては他人よりも優れたもの、特技はこれしかないので、
とにかくどんなことがあっても編むことだけはきっと辞めないと思います。
でも、昨年の夏のSIBUYA DUOでは
今年は本当にニューアルバムをリリースできる状況になったような
発言がありましてワクワクしましたがROPPONGI WAVEから8月の15日にニューアルバムがリリースされました。
なんでも箱根スタジオをリニューアルして再開させたそうです。
また一昨年夏には広島原爆投下の平和イベントとして
ユニバーサルピースDAYという、ピースライブで
広島とニュートークでピースライブをしました。
ニューヨークでは酷暑の中で
ニューヨークリバーサイドパーク&チャーチで昼と夜に歌いました。
そこでアメリカのマスコミが
一斉に原田真二さんを取り囲んだそうです。
アメリカのマスコミもびっくりだったそうです。
なんなんだ!?という感じだったそうですよ。
ニューヨークに行って、
あちらの方たちと一緒に方を並べて歌う真二さんの映像を
インターネットで拝見しました。
あのすがすがしい表情に
ニューヨークであちらのミュージシャンの方々と和気藹々としている映像が、
私たちファンにはとても嬉しかったです。
そして、アメリカのマスコミやプロモーターとコネができたり
昔の元カーター大統領にお会いして面識ができたりしたそうです。
一昨年の広島の護国神社での鎮守の杜コンサートに
ゲストでアメリカのミュージシャンが来日されたそうです。
その有名なフォークのDUOは
アメリカのベトナム戦争反対活動などをしていた社会派シンガーで、
あの横田めぐみさんの歌を来日して作った方です。
あのニュースはそういう裏があったのです。
原田真二さんの鎮守の杜コンサートのゲストとして来日されて
テレビを拝見されて横田さんの話を聴いて
歌を作って励ましてくださいました。
流石に社会はソングライターさんですね。
話を戻しますが原田真二って誰?という方々のために少し解説をいたしますね。
今でも50にはとても見えませんが、
デビューの時にはブラウン管が原田真二さんが出ると輝きました。
原田真二さんのルックスは輝いていて、ファッションリーダーで、
明星や平凡には特集で付録に
原田真二さんの着こなし術とかもあったくらいです。
とにかく今まで見たことがないような
ピッカピカに輝く王子様だったのです。それは完璧な王子様でした
一時期マッチや聖子ちゃん、また、浜あゆや
いろんなタレントさんが時代のファッションリーダーであったのと同じで、
もっとすごい社会現象にあのトリプルデビューはなっていました。
1977年10月25日にデビューされました。
繰り返しますが、
あのときのTOP10に3曲同時に入ってしまって
しかもデビュー曲が3曲で、これはトップ10ではギネス級の記録になっています。
その頃から原田真二さんはただ歌ってレコードを出すアイドルではなくて、
テレビ局に録画に入ればモニターはどこですか?
ときいてテレビ局で大変顰蹙をかったり
、あの有名なドリフターズの「8時だよ全員集合!!」では
「俺はお笑いじゃない、ミュージシャンだ!!」って録画途中で帰ってしまったり、
いかりや長さんに聖歌隊のコーナーで
「今日は1人帰っちゃった奴がいるんだよ〜〜」なんて言われてみたり、
私はそのメチャクチャやってるところも大好きでした。
そしてそういう生意気と言われてしまった言動だけではなく
原田真二さんは音楽性に溢れたアーティストさんで、
何度もツアーパンフが今ヤフーオークションなどで売買されていますが、
ツアーをやっています。
よくテレビでこれから全国ツアーですというのを、
いけないので羨ましく観ていました。
最近その時のツアーパンフを
全てやフーオークションで入札しましたが、感動しました。
オデッセイや大好きなレコードもLPで買いました。
当時アイドルは歌が下手くそというのが当たり前でしたので、
普通はレコーディングはしてもライブはやらせないというか、
できないものでした。
でも、原田真二さんはレコードよりも当時からライブがはるかにうまくて
楽しくて、逆にこちらも驚きました。
トリプルデビューになった訳もそういう音楽性に溢れたところを強調するために、
3曲になったということです。
ライブに行ったからには
生の原田真二さんに会いたいという思いは共通でしたが
その最初のライブの「FEEL HAPPY」ライブが終わってから
会場のファンが興奮してメチャクチャになって、
わたしもドサクサにまぎれて1階席に行ってみて
せめて前の方で真二さんのステージを見て
テープでも拾ってから帰ろうと思ってステージの最前列右横に居た時に、
急に原田真二さんとメンバーさんたちがその右横から
文明堂のCMみたいに肩を組んで足はあげはしなかったけど出てきて、
ありがとうって何度も何度も一緒にお辞儀をしてくれていたのを、
目の前で見ていました。
でも、その時の会場の様子はもう警備員もてんやわんやで
私がそんなステージのまん前に行けるくらいですから、
ファンは興奮して金銀や赤などのテープを飛ばしまくっていて、
ハッピ軍団は暴れていたし、花吹雪みたいな紙も舞っていたし、
警備員はハッピ軍団の警備に気を取られて私が一人でそこに行ったのさえ、
わからないほどにパニックだったんでしょう。
でも、当時の王子様を生でマジかで見れたのはミラクルハッピーでした。
当時は出待ちなんてかわいいものじゃなくて
原田真二さんの追跡です。
入る車を目撃した私の証言から追跡が始まって、
わたしはピンクのお姉さまたちに連れまわされて、
何回も地下の駐車場と表を往復するうちに、
警備員につまみだされてしまい最終的に外でみんなと固まって、
どうする?どうする?って相談してた時に、
すぐ上の窓が開いて真二さんがファンにおもむろに手を振りました。
確か3階でした。それはちょうどあきらめて帰ろうとしていた時でした。

再び私たち乙女は、キャーっといって私も一生懸命手を振りまして、
手を降り返してくれました。
そこでまた、まだ真二がいるってことになって、
もう1度さっきはあった真二さんの車を確認しにいって、
まだいるねってことになってからそこで待っていたら、
また警備員につまみ出されてしまいました。
そこで駐車場の出入り口で出てくる車を
私たちは左右で手分けをして張ることになりました。
なぜだか私は駐車場に向かって左側の運転席側を見るようにいわれて、
左側の私たちがが運転席と後方で、
右側の人たちが助手席から見える範囲で
車の中に真二が乗ってるかいないかを1台1台そっちはいたか?
こっちはいなかったって、大体1時間以上くらいもずっとやっていました。
私は覗いては真二が乗ってるか乗っていないかと確認し反対側の人に報告して
右側と左側と分担して乗っていたかいなかったかと確認しあったのに、
約1時間くらいしたら、警備員が無線で「出た、OK」とかいっていたので、
やっと諦めて帰りましたが、
まだあれもわざとそういって散らしてから出たような気がしますし、
始めて追いかけをしてみた時の楽しさは、今も同じです。
あの中の車の中のどこかに隠れていたのか、
トランクの中にでも入っていたのか、不思議ですが
乙女なわたしたちには必死な問題でした。
当然終電ぎりぎりでしたので、
帰ってから母にとても怒られました。中学3年の4月でした。
当時は、まだ、ライブに行くのは不良というイメージが先行していましたが、
わたしは受験勉強がどこか無意味に思えていました。
当時は神奈川県にいたのですが、
神奈川県は当時は中学2年生でアテストという診断テストを
中学の2年の終わりに受けて、
その点数で高校を振り分けていたので、
中学の1年からアテストにむけての勉強が大変でした。
わたしは勉強は嫌いではなかったし、できるほうだったのですが、
流石にアテストにむけて毎日9科目を勉強するのはかなりしんどくて、
東京の友達は高校受験は都立は3科目か5科目で
中学3年になってしばらくしてからが受験勉強なのに、
夏休みになれば、こんなに40日間でできないよっていうくらいの宿題が出て、
毎日市の図書館通いが日課でした。
でも、なんでこんなに勉強しなくてはいけないのかと思ってはいて、
少し勉強に手を抜いて、中間や期末のテストの順位が少しでも下がると、
担任の先生にあなたはやればできるんだからと、怒られながら勉強をして、
中学の1年の時は常に成績は10位以内にいて、
点を取ることに生きがいを感じていたんですが、
流石に中学の2年くらいになると点を取って順位をあげても、
あまり人生には意味がないような感覚になってきて、
あまり勉強をしたくなくなりました。
それよりも映画を見に行ったり、友達とスケボーをしたり、部活をしたり、
学校のいろんな生徒会や文化祭や放送や新聞の委員をしたり、
好きな男の子を思ってマフラーを編んだり、
テニス部の素敵な先輩を追いかけたり、テレビを観たり、
そんなことのほうがはるかに受験勉強よりも楽しかったです。
逆に友達を失くして点をあげても仕方がないと思っていました。
ただ私を点取り虫にしていた思いは、
あの子はお父さんが死んでいないから成績が悪いんだと
いわれたくない一心でした。
周りに負けたくはなかった、そんな思いでした。
それでも学年で20位以内にはいても
先生は10位以内に復活しないといけないというのです。
みんなもものすごく勉強していたので、
とてもそんな中ではみんなにはついていけないので
仕方がなくテストの点数をあげることを考えていました。
学校とはそういうものです。テストの点のいい子供がイコールいい子なのです。
普通に勉強なんかをしていたら10位以内なんかには入れません。
でも、先生は当時のわたしにそういうことで勉強を通して進学校に行かせて、
バリバリ人生を歩いて欲しいと思ってくれたみたいでしたが、
私は当時はクラスで好きだった男の子を諦めろとか、
勉強してもしても、もっと勉強を要求する先生や受験の厳しさには
参っていました。
原田真二さんの切抜きを挟むと、私だけ没収されて、職員室では先生に、
あなたがこんなことをするなんて思いませんでしたよって、
怒られる始末でした。
友達はキッスの切抜きを挟んでも没収なんてされないのに、
わたしだけがいつも、クラスの子にエコヒイキって言われるくらい
厳しくされて、
でも、当時のわたしの状況を見ていた先生側の必死の応援でした。
それが当時はよくわからなくて実際にはそんな風には自分を優等生扱いや
特別扱いはしてもらいたくなかったのが事実でした。
学級委員も大抵学年の1学期にやらされるし、
中学2年では生徒会に
立候補しろと言われて、
したくもない選挙演説や、
朝から登校する生徒に一人で立ってお辞儀をしたり、
やる気もなかったので、演説は時間制限で切れるし、
当然票も入りません。でも、先生たちはどうしてもわたしを押すので、
当時はかなり回りの生徒からはえこひいきなどと言われて嫌われていました。
教育をする側と本人の意向が合わないことは
やはり当時からありましたが、
この頃に粘り強い性格になっていったり、
勉強以外の学校の部活や委員をたくさんしたりして
かなりマルチに中学生活をENJOYしていました。
中学はとても楽しいものでしたし、
高校受験は大学受験ほどに深刻でもなくて、
受験戦争自体を冷めてみながら、
結局は受験戦争というハードルを越えないと先にはいけないと
努力をしたものです。
まあ、テストの点数をあげるのは簡単です。
過去問題集を10年分くらい買い込んで、
まずは全部やってみてから、弱いところを基礎から重点的にしていったり、
そのテストの傾向を知るんです。
ただそれだけでテストの点数なんて面白いように上がるし、
順位なんてものもたまたま他ができなくて自分だけができれば
自然に1位になるもんです。
だからってそれがいいことか、
テストの点数を上手く取れる人間がいい人間であるかは全く違います。
でも、受験という点取りゲームに勝たないと
上にいけないような社会なのです。
でも、社会の上に行ったからって果たしてそれが本当に幸せではありません。
権力を手に入れても社会的な地位を築いてもそれはただの砂の城なのです。
親はそれ以降原田真ニさんのコンサートに行かせない方針を取りました。
クライシスのライブは危険だということなのです。
当時はベスト10とか夜のヒットスタジオとか音楽番組が
今よりも流行っていてたくさんありました。
だから主にクライシスは毎日の音楽番組で生で観ていました。
当時の原田真二さんはとにかく若さもあったと思いますが
若者の思想的なリーダーで、
親はよくそんなライブには子供はやれないなどと言っていました。
別に原田真二さんのライブだけじゃなくて、
当時はビートルズが来日しても
学校で絶対に来日ライブにはいかないようにというお達しが出た時代で、
バンドやギターを弾く者は不良とされました。
それだけ音楽やエレキやロックが自己解放であって、パワーがあったので、
既存の枠にはめたい親たちには危険視されていました。
YUKOの話はよいのですが、
原田真二さんは元々ジャズバンドなどでに出ていたり、
またヤマハの音楽教室でポピュラー専科で勉強をされたそうです。
でも、たった3年であれだけのピアノを弾くのはすごいと思います。
時々ライブでピアノの鍵盤を壊してしまうそうで、
以前に岡山デスペラードで行なわれたライブが
先日のライブでDVDになって発売されていましたが、
やはりローランドのピアノの鍵盤をライブで弾くうちに
1個壊してししまったシーンがありました。
ピアノには元々クラシックピアノとポピュラーやジャズピアノなど
ジャンルがあります。
クラシックピアノは基礎からメトロノームなどを使い強弱も忠実に弾きますが、
ジャズやポピュラーピアノはテクニックよりも雰囲気で勝負をします。
その雰囲気が原田真二さんには強烈にあるのです。
話は戻りますが、そのFEEL HAPPYツアーがあった年が
わたしは高校受験の年でした。
受験は結局は中学の3年の夏から月1万の月謝を親に頼んで出してもらって、
初めて進学塾に通い出しました。
塾に通いだすと、試験にあわせて様々な対策を取ってくれて、
わたしはその月謝を死ぬ思いで働いている母の事も思って、
夏からは本格的に受験勉強をしました。
それからは部活も引退して、勉強につぐ勉強で、
そんなに直前に必死になるならもっと早くに本気になればよかったのですが、
冬休みくらいから、その進学校に入れそうなレベルになってきて、
1月の校長会議にもかけられて、受験をしました。
これも親にも申し訳ないのすが、その公立の進学校1本ではまだ危険なので
私立をもう1本受験するように言われて、
親は悲鳴をあげていましたが公立の合格までに私学に10万を支払うのも、
親がないといっても自分が高校浪人をしないために頼んでしまって
申し訳ないと今は思います。
なんとか両方合格して、
わたしの人生の中ではその高校受験と、
コンピューター会社の学校に通って
その会社の試験と面接に受かって入社したことと、
編み物の勉強で手編み講師の資格を取得した時と、
今までの人生の中で本気で頑張ってきたことってなかったと思うくらい
高校受験は頑張りました。
まあ、じゃ、それ以外は頑張ってないのっていうわけではなかったですが、
元々男の子か女の子かわからないくらいの子供だったので、
これは絶対に外せないっていう時は全力で戦いますが、
別にそういう必要のないときはあんまりって性格ではあります。
それで編み物のスキルを疑われそうですが、
作品を仕上げていくことはまた別問題です。
作品を仕上げるという作業は絶対にやり抜きます。
大学に行くには流石にもう親にも負担をかけたくはなかったので、
高校は卒業してからは高卒なので市役所のバイトをしたり、
地元のコンピューター会社に勤めてみたり、
でも、その会社も女が事務で働くには若いうちはいいけれども、
年を取れば切られてしまうかからという会社の先輩のアドバイスで
当時の会社で毎日パソコンルームでパソコンを勉強し始めて、
その本社の社長さんにも人の仕事を手伝うくらいなら
パソコンを勉強しろと言われていたので、
毎日会社で好きな時間だけコンピューターの勉強ができました。
その会社を辞めて21の時にコンピューターの専門学校に入りました。
年齢的に企業に入る最後のチャンスだと思いました。
新卒が22歳だったからです。
当時のわたしは社会の大きな企業で
バリバリ働きたいと思っていました。
転職をするためにたまたまとらばーゆで仕事を探していたら、
巻末に専門学校特集があって、
先輩の日立のコンピューターのエンジニアに相談して
ある会社のコンピューター専門学校に通って
コボル言語などコンピューターの汎用を動かすプログラミング言語を
研修しました。秋に本社に入社ができてから働きましたが、
実際にまだ当時は女がいくら頑張っても男社会で
男と対等に仕事もできないし、
また男性社員に仕事を邪魔ばかりされていました
割りにあわない、わたしはその事務所の中でいつもそう思っていました。
でも働いてその賃金で暮らして自由になることは楽しかったです。
まあ、毎回出ては消える私の話はどうでもいいのですが
原田真二さんは
コンピューターでいったらたくさん仮想メモリを持った
バッファ処理のコンピューターみたいです。
バッファ処理とはある領域にタスクをためておいて、一度に出力して
たくさんのタスクを一気に済ませてしまう処理のことをいいますが、
そこに仮想メモリが何重にもあるような感じです。
仮想メモリとはコンピューターの
メモリーがいっぱいになった場合に使う領域のメモリです。
それに真二さんの頭の中の回転スピードはものすごく早くて、
本人もよくフラッシュバックするというくらいなので、
瞬間瞬間がものすごいスピードで普段からタスクをこなす
高速なコンピューターみたいです。
きっと真二さんならミュージシャンにならなければ、
宇宙飛行士になれたはずだと思います。
真二さんのスマートな身のこなしや、
楽しいMCや計算しつくされたサウンドもステージも、
そういう頭のものすごくいいというところから来るんだと思います。
私は昔の東京に居て親に守られていた時代と親を失ってから、
家庭も保護者も何もかもなくなったギャップに激しい疑問を持ちながら、
毎日は不満だらけ、そんな時にふと原田真二さんを観て
ブラウン管の中に映る原田真二さんのティーンズブルースのせつない響きや
キャンディーのとろけるサウンドやシャドーボクサーの陰に惹きつけられ
夢をみました。
マスコミなど無視してハデにやってる原田真二さんを観るのが楽しみでした。
当時はチャーさん世良さん原田真二さんがロック御三家といわれていて、
その前の新御三家がひろみに秀樹に五郎でした。
明星や平凡を買うのが私たちの間では流行っていました。
最近ヤフオクに昔のそんな記事が出ていますが、
かなりな高値がついています。
当時のシャドーボクサーという歌が
私の心の孤独やいろんなものを揺さぶりました。
これはいわゆる松本隆作品でしたが、
レコーディングにはとても著名なミュージシャンが参加して録音されています。
原田真二さんのファッションも当時は
流行になって着こなし術とかも雑誌に出ていました。
洗い立てのシーパンを着る、シャツも洗い立ての綿のシャツを着る、
そんな感じでナチュラルでした。
お金もなかったけど、明星で読んでは同じ原宿のエコーに行って、
やっとジーパンを1本買って揃いのベルトを買って、
まだそのベルトは持っていますが、流石にジーパンはもうはけません。
レコード屋さんではためたお金でファーストアルバムのFEEL HAPPYを予約して
その日は学校から真っ先にレコード屋さんに走り、
初回限定のポスターをもらい、
ファーストアルバム”FEEL HAPPY ”を聴きました。
音の魔術のようなアルバムには何度聴いてもどの曲も好きでしたが、
カーテンライズやプラスティックドールやエンジェルフィッシュが
当時は特に好きでした。
今その時のポスターを観ると本当に嫌そうにギターを抱えている真二さんが
当時の仕事は本当にきつかったと物語っているかのようですね。
その頃から原田真二さんのアルバムには
聴き手をかなり意識したストーリーがありました。
イントロで始めって綺麗にエンディングで終わる、
これはどのアルバムにも同じことがありますし
、原田真二さんの音楽はとても凝っています。
当時の中学生の下敷きには私ももちろん
クラスの女の子もマイアーティストの切抜きをたくさん挟むのが流行っていて、
女の子たちのマイアーティストは、
クィーンやポールマッカトニーやビートルズやベイシティーローラーズが洋物で、
和モノはさだまさしやゆーみんや、原田真二さんあたりで、
お互いレコードを貸し借りしたり、
また友達は買った雑誌に原田真二さんがあると全部私にくれました。
また軽音クラブが流行っていて矢沢永吉さんのファンも多数いました。
実際に文化祭などはそういうみんなが演奏することもたくさんあり、
また別に趣味で街のライブハウスで弟もバンド活動をしていて、
家には大きなアンプが普通に横にあって弟がエレキをアンプで弾くので、
当時は私と弟は煩いといってはよく喧嘩をしました。
それからは弟は近くのスタジオで雑誌で募集したメンバーを集めて
バンドの練習をしていて、そんなライブをよく観にいったり、
弟も様々なライブ活動を仕事とは別にしてオーディションを受けたけど、落ちて、
結局ライブでプロになるのは諦めたみたいでした。
だから今でこそ誰でもできてハードルのないバンド活動ですが、
当時はプロとアマチュアのハードルはとても高く、
またいくら技術があっても芸能界の頂点でバンドで活躍することは
とても難しかったのです。
だからわたしは原田真二さんやその時代のプロのアーティストは尊敬しています
特にあの頃からずっと現役でやってる矢沢永吉さんや原田真二さんを
尊敬しています。
彼らはまさに輝く星、スターなのです。
プロのバンドとアマチュアのバンドは全く別物です。
また最近よくストリートを見るのですが
たまにもったいないようなものはあっても、
大抵はこんなところで勝手にやらないでっていうものが多いです。
あの頃に活躍していたプロは今のプロとは全く違う
選ばれたミュージシャンたちだったのです。
そして、ミュージシャン同士はレーベルも超えて
普通にジョイントしていたし、
そういう意味では昔のライブの方が楽しかったです。
テレビでミュージシャン同士が飛び入りでジョイントするたびに、
私たちは感動しました。
アンルイスが六本木心中を歌う時に、
急にいきなり横に吉川晃司が出てきたり、
音楽番組も今みたいな枠にはまったものではなくて、
もっと自由な音楽番組のショーみたいなものが
かなり生放送で毎日のようにありました。
そのミュージックショウの中では
その日のゲストでもないゲリラゲストが出てくるサプライズがかなりあって、
わたしたちお茶の間は観ていてとても楽しかったし、
自由な雰囲気が好きでした。
それにテレビ局もとても自由に生放送にとんでもない人が出ても
映す時代でした。
よく昔はテレビで脱いでしまうタレントさんがいて、
そんな時にはカメラさんは慌てて天井を映して、
暫くは番組が中断することは日常茶飯事でした。
大体テレビは録画ではなく生放送で、
今は逆に録画に字幕までつけてCMの前後では同じ内容を重ねていますので、
伸びていてつまないと思います。
製作側が意識をして番組を作りすぎています。
だから、そういう部分ではライブにはいけなくても
簡単に音楽に触れられる時代でしたし、
大抵いつも情報はテレビでした。
もちろんパソコンや携帯電話もない時代で、
CDではなく黒いレコードでEP,LPの時代でした。
だから普通にバンドやレーベルを超えてジョイントできる
ミュージシャンは素晴らしいと思っていましたし、
弟もミュージシャンになりたくて、仕事をしながら東京のライブハウスなどで、
かなり活動をしていましたが、
自分で肩書きはミュージシャンという肩書きの名詞を作っていたり
私の結婚式で結婚式場にギターを抱えて入るときに、
弟もルックスがよかったので、
周りに「ミュージシャン??」って言われたんだってすごく喜んでいたし、
今も兄弟でお互いの好きなアーティストのチケットを取ってやって
弟には矢沢永吉さんのプラチナチケットを譲り、
弟が喜んで30周年ライブに行ったし、
またわたしがチャーさんのライブのチケットを取ってあげたら
喜んでチャーさんのライブに行ったようで、
私は今更ながら弟が口でいうほどに実際には当時はライブに行く時間もなく
働いていたことに対してすまないと思いました。
父を失って弟が最初に買ってきたレコードが「なごり雪」でした。
それは東京を追われるように地方に行った気持ちだったかもしれないし、
その次に買ってきたのは「いちご白書」でした
そこまでが懐古的なレコードでしたが、それからはロック系になって、
中学のかばんの肩紐にはディープパープルと書いてありました。
一度だけそんな弟が傷だらけになって帰宅をして泣いていた事がありました。
多分暴行を受けて殴る蹴るを複数にされたみたいでした。
それから弟がスポーツや音楽やなんかに闘いながら進んでいったようでした。
洋楽、邦楽のロックを中心に聴いては実際にコピーでバンドをしていました。
男の子、女の子の差はあっても、勉強ばかりの私よりも弟の方が、
今思えばはるかに偉かったです。弟は当時は矢沢永吉さんが特に好きでした。
壁に貼られたえーちゃんのポスターを拝みながら、
成りあがりというエッセイを毎日読んで崇拝していました。
当時はかなりそういう若者は多かったです。
そんなわたしの話はどうでもいいのですが、
そんな環境にいて家にはいろいろな音楽が流れていましたから、
大抵のその頃のロック系は狭い家で弟に流されていました。
私はどちらかというと、ロック系よりも当時のビージーズやアバなどの
洋楽でもメッセージ系が、そして爽やか系が好きでした。
なので、よく弟とはお互いの好きなアーティストをけなしあったり、
私はロックやヘビメタが好きな弟のことを、本当に馬鹿だと思っていました。
当時はライブ会場もあまり施設自体がなくて、
中野サンプラザや横浜県民ホールや
渋谷公会堂や新宿厚生年金会館くらしで、外タレは大抵は武道館でした。
武道館は当時のアーティストが、
いつかは武道館でコンサートをしたいという夢の場所で、
実力と経験を積んだ国民的な歌手しか普通はコンサートはできませんでした。
原田真二さんはその武道館をデビュー10ヶ月目でやっていますが、
それは普通はタブーであり、考えられない事でした。
武道館は来日アーティストか大物タレントもやっとの登竜門であったので、
今はこれがライブアルバムでCDになったりして、
普通にどのタレントも武道館公演をしますが、
今は逆に広くて大きな会場がよこはまアリーナとかさいたまアリーナなどが
多数あるのでそっちがメインです。
この武道館公演はDVDになっていますが、やっぱりこれはファンも驚いたし、
伝説でしかありません。新人のアーティストには武道館はありえなかったし、
あったとしても成功はしないから
やっても仕方がないからやらないのが定説だったからです。
あの頃のアーティストは武道館をいっぱいにするを合言葉にしていたくらいです
美空ひばりさんや大物の演歌歌手さんでも
引退間際に1本武道館がやれたらいいほうでした。
今、改めてCDになって、またDVDになって当時の武道館を観れることには、
大変感動しますが、これだけは本当に行きたかったと、今でも後悔しています。
原田真二さんは今環境問題や社会活動に積極的に取り組んでいます。
毎日残酷なニュースは増加する一方ですが、
背景にはこの世の中で短絡的で、楽して儲けるとか、
それは大きな社会の歪でもあるし、日本が豊かになってきた証しでもあります。
物質と心は反比例します。
なんでも物が溢れて、お金で買えると自然と人は楽をしたくて
お金で済ませてしまい、また助け合いの精神などなくても
お金と物があるので大丈夫になってしまうのです。
一見は満たされているようですが、これは虚像であって、
今は話し相手ボランティアなども仕事になってしまい、
街には話を聴いてもらいたくて買い物をする人で
特にデパートなどは溢れています。人を愛するということを教育しないで、
高学歴社会で知識だけを詰め込む受験勉強で皆が競争で育ちますので、
そんな塾通いしかしないで遊んでいない子供たちは
当然喧嘩をしてみたこともなく、どの程度やれば相手が怪我をするとか、
自分も怪我をして痛い思いをするとかいう経験がないからです。
全部親が用意したレールの上しか歩いていなくて
転んで痛い思いもしたことがないので、すぐに挫折してへなってしまいます。
かっとなれば凶器で人を殺して、
さらにそれを隠すために隠蔽工作もしてみたり、私などは時々ありえない、
信じられないニュースを見ると、それは加害者一人の責任ではなくて、
我々社会全体の問題であると痛感します。
犯罪を犯した犯人を何人裁いて刑務所に入れてもいたちごっこなんです。
いつから子供や女の子が安心して歩けない社会になったんでしょう。
私たちが小さな時には公園でたくさん遊びましたが、
今は公園で遊ぶと変質者がいるから注意のチラシがポストインされます。
登下校も親が見張り、遊ぶのにも親が付き添い、絶対におかしいです。
わたしたちの世代の幼い頃から日本の高度経済成長が始まってきたので、
すでに塾通いは小学校からあって、家庭教師もつけてるこもいました。
だから残念ながら我々が構成している社会は歪んでいて、
特に今はお年寄りや子供さんなどの弱いものには厳しい時代です。
それは我々が競争で育ってきた結果なのです。
原田真二さんは最近特に次世代の子供へのメッセージソングということで、
行く先々のコンサートでは老若男女を問わずに、
ファンが集まって暖かなコンサートが行なわれています。
わたしの育った田園調布にはそういう当時の塾通いをさせる親や、
本当に狂ったような教育ママがいて、
当時はお稽古事もピアノ、そろばん、お習字、バイオリン、などは皆あたり前で、
いかに中学からいい付属の中学に入るかの戦争が、
もうすでに小学生の高学年くらいから始まっていました。
また、そういうところを目指しているおぼちゃまや、お嬢様は
家庭教師も当たり前で、
私が学校から帰って家の玄関にランドセルを放り投げて、
自転車で走り回って遊んでいると、まっすぐに塾に通って勉強をしていました。
でも、子供には家庭環境を選べないので
逆にそういう子供はストレスをたくさん抱えて生きていました。
だから、当時から学区内にはバスで別の付属の小学校に通う
紺色のランドセルの子も何人かいて、
当時は漫画や新聞をそんな中で読む子供が問題になったり、
子供の漫画の歩き読みや実際に体育の時間に、
逆上がりができない子供や跳び箱が飛べない子供が問題になっていました。
でも、まだ昭和のいい時代の名残に駄菓子やさんがあって集まったり、
かんけりをしたり、ケイドロという遊びや、
夏にはプールで泳いで遊ぶのが遊びでした。
特にうちは親の方針で家には様々なゲームがあって、
家では特に父親と弟と3人で夜はゲームをしていることのほうが多くて、
次の日の学校のテレビの話題にはほとんどついていけませんでした。
父親は特にたくさんのゲームやレジャーを通して
たくさんの大切なことを教えてくれました。
でもいわゆる勉強しかしないで、
遊んでいない人がエリートとして支配する社会は矛盾を含む社会でもあります。
遊びを通して、人は友達と喧嘩をしては仲直りをして
友情を育んでいくことの大切さや、どの程度まで喧嘩で暴力をしていいかなどを
実際には理解します。
また本当に自然と触れるようなレジャーをたくさん体験して、
心の豊かな思い出と共に子供は育ちます。
親と遊んだ思い出や親たちの兄弟が仲良く親戚として付き合っていく姿を
みながら、本当の人間の姿や友情や関係を学んでいくんだと思います。
でも子供には環境は選べません。
だから子供にはいい環境を整備していく必要があるのです。
だから、ただお台場やディスニーランドに行って遊んでお土産を買いあさるとか、
旅行も名産地にいって、そこで大いばりでその土地に迷惑をかけるのは
本当のレジャーではありません。その土地ならではのおもてなしを堪能したり、
自然を体験したりして楽しむことで、その土地の人が喜んでくれます。
今でも山の中で乗馬をしたり、
牧場で生の牛乳を飲んだり、
山歩きをして山菜を摘んだり、
山歩きで見つけた渓流で川遊びをしたり、
そこですくった小さな魚が今度親戚の家に行くと、
水槽で巨大な魚になっていたり、
親戚同士川原でバーベキューをしたりした楽しい思い出があります。
親戚の家に集まって、みんなで御馳走を作っては、
お父さんやおじさんたちが楽しそうにお酒を飲みながら、
戦争中に自分たちが何をしていたかを語る様は、本当に平和でした。
1人のおじさんは、特攻隊で突っ込んでいる時で、
先輩の飛行機が撃墜されて、その次は自分が突っ込む番だったけど
そこで終戦になったことと、
隣の先輩のゼロ戦が目の前で撃墜されて墜落したのをみて、
次は自分だと思ってた瞬間に無線で終戦だから引き上げる命令が来たとか、
もう1人のおじさんは南方の前線部隊に居て、
スマトラ島というジャングルの中で、
毎日機関銃で前線で何人も何人も人を殺していて、
ある日本当にスマトラ島で足のない幽霊をみたとか、
そこは本当に最前線で機関銃でバンバン人を殺しまくり、
でも、日本に帰ってきたとか、
最後に父の話しになって、父が当時にいた場所を説明すると、
伯父たちが、満州だといいました。
父は当時はロシア兵に捕虜として捕まってしまったけど、
なんと脱走して中国大陸を脱出してきたとかで、
しかも最初は何人もで脱走をしたけど、
結局中国大陸を抜けられたのは最後は自分ひとりであったことなど、
途中で食べるものがなくなると死んだ仲間の肉を食べたとか、
その話しになると母親は
人間の肉を食べる話なんて、やめてと悲鳴をあげましたが、
戦争を体験した世代の男性は勇敢でした。
あの戦争中の中で実際に戦ってきた武勇伝を聞くたびに、
中国大陸を脱走して逃げて来た父親を思いながら、
最後は仲間が全部死んで一人で帰国したくらい優秀で強かったと思い、
そんな父の姿を思い描いて話を聴くのが好きでした。
それは必ず兄弟が一緒に寝るときで、
お話をしてくれるのは父親の仕事でした。
きっと子供が目を輝かせて話を聴く姿や、
自分の偉い話をしたことは遠い将来の子供のことを
真剣に考えていたからだと思います。
伯母も女学生だったけど、竹やりで、「米英撃滅!1,2,3!」と
毎日白鉢巻で訓練をしたとか、
それぞれの戦争の時の武勇伝を語りながら、お酒を飲む姿は、
世界平和そのものでした。
子供もそんな親たちの中で育っていけば、
友情の大切さや人間としてしていいことや悪いことも自然と学んでいきます。
それは学校の教科書や参考書や塾の勉強にはないことです。
よく最近引きこもりが問題になっていますが、今のような社会では、
わたしでも引きこもりをしたくなるほどに、世の中は何かが違います。
犯罪をいくら取り締まっても、刑罰を重くしても、見せしめにニュースで流しても
根底にある意識が変わって、人を本当に愛することを人間がしない限り
繰り返すだけです。
それには、本当に子供の目線になって、
次世代の子供たちに優しい気持ちを持ちながら、
大人たちが楽しい社会を作っていかなければいけません。
そうして、豊かな心をもった次世代の大人が増えれば、
今のような醜い犯罪も残酷な事件も減り、いい社会になると思います。
子供は環境を作ったり選んだりはできないのです。
良い環境の家庭や社会を作り保つことは我々大人の仕事なのです。
今、いろんな形で大人たちが間違っているということをいいながら、
社会を良い方向にしたいと思っています。
原田真二さんの音楽はやはり癒し&元気になれる音楽で、
ストーリーのようなアルバムです。
原田真二さんも、その時々で、時代にあわせてクライシスだったり、
カインドネスだったり様々なテーマで曲を作っていらっしゃいますが、
芸術の根底にあるのは、社会の平和を願う心や、悲しみを拭う心や、
人を愛する心や様々な気遣いのされた思いのです。
音楽や芸術やスポーツには国境がありませんし、時代を超えて残ります。
わたしたちも中学や高校生の時に、やはり大きな社会の矛盾を感じていました。
またそういう若者の不満を代表していたのが当時のクライシスであり、
元々は宇宙飛行士になりたかった真二さんが、
地球の危機を感じて作ったのが、
サードアルバムの「HYUMAN CRISIS」でした。
そこにはコスモポリタンな偉大さを感じたものでした。
これは全く初期の松本隆さん作詞の作品の「FEEL HAPPY」とは
異なるもので、その次の「ENTRANCE」も素晴らしいです。
このヒューマンクライシスから実際の原田真二さんの活動が始まって行き
様々なアルバムになっていきましたが、
まだ大人の社会に対しては意見はできなくても、
矛盾があってもクライシスの活動を観ていてすっとしたり、夢を追いました。
原田真二さんは元々宇宙飛行士になりたかったそうです。
特にヒューマンクライシスには、
当時の宇宙遊泳を思わせるサウンドが散りばめられていて、
聴く度にコスモポリタンな大きさを感じました。
聴く度に穏やかな気持ちになれました。
原田真二さんは今まで180曲以上の自分の曲に、
他の有名アーティストに提供した曲を入れると
数え切れないほどのメロディーを世に送り出しています。
それは様々なシーンを歌に音楽にしていて、
ジャンルもジャズやソウルや洋楽の要素があり、
アルバムもベストを含めて36枚も出してきたそうです。
いつのシーンでもメロディーメーカーとして
現役で頑張っているのはすごいと思います。
それはロックの矢沢永吉さんもそうです。
好きなアーティストは、ポールマッカートニーや、エルトン・ジョンさんだそうです。
だから、真二さんががクライシスとして
出したアルバム2枚のヒューマンクライシス」「エントランス」は
そういう誰も皆が一緒とか、世界や社会の矛盾とかいう点で、
共感する部分も多く当時カセットで買ってきて、
もうそのカセットテープも切れてしまうほどに聴きました。
この頃は一番多感な高校生でしたし、英語の勉強も兼ねていましたし、
よく真二さんのアルバムや洋楽のアルバムで知らない単語が出てくると
辞書で調べたりしました。
最近発売されたコンプリートBOXは
その月の生活費を全て投げ打って買ってしまいまして、
後で死ぬほど主人に怒られました。
昔のいわゆるジャパニーズPOPSやロックやニューミュージックには、
夢がたくさんありました。
ある日いわゆる音楽業界の仕掛けた流行の音楽に飽きてしまって再び、
CDショップで原田真二さんのCDを探したら、
今リニューアルされる前の「アーバンエンジェル」と
デビュー20周年を記念して発売された「原田真二の世界」を見つけました。
まだやってたんだって嬉しくなったと同時に原田真二熱が復活して、
それからインターネットで検索するとちょうど公式HPができたばかりの時で、
ファンサイトをみつけて懐かしさと嬉しさのあまりに
たくさんの書き込みをしてしまいましたが
さっきのコンプリートの発売予約と様々なイベント代も
思い切って生活費を全部投入して25周年関連行事に行きました。
そこで、わたしの人生の全てが変わりました。
私は何もできなかったと愚痴をいいながら生きる人生よりも、
自分でいつも後悔しないだけの努力をする人生を生きていきたいと思っています
原田真二さんの夢は素敵な音楽が流れる地球です。
音楽や芸術には国境も垣根もなく世界を1つにする力があります。
最近では原田真二さんといえば松田聖子さんのプロデュースを
全面的に行なっていたことで有名ですが、
全面的に松田聖子さんのプロデュースを行なっていたので、
原田真二さんといえば松田聖子さんで有名で
自身の活動をする時間がありませんでした。
でも、近年たくさんの松田聖子さんのプロデュースを通して、
音楽をプロデュースしてプロデュースする側に回って成功をしました。
岐阜羽島や福井で大黒魔季さんとジョイントコンサートがあったのもそういう一環の流れでしょうか?
毎年夏の日本の風物詩にもなった松田聖子さんの
”SEIKO MATUDA SUMMER TOUR”の音楽監督を
2000年からしばらく出掛けていました。
そして、今はとても人気があるという
松田聖子さんのディナーショウのファンダメンタルを作りました。
今は自らが全国各地でディナーショウを行なっています。
クリスマスディナーショウは今まで東京のお船のものや、
札幌に2回バースデーディナーショウに行ってきましたが、とても素敵でした。
あと、次回の広島のディナーショウみたいに、
クリスマス以外にもディナーショウをたくさんしています。
ディナーショウのいいところはゆっくりホテルにステイしながら
自分もドレスアップしながら非日常を
素敵なお料理とお酒で楽しめるというところです。
自分への御褒美であり、楽しみです。
また最近では元TMネットワークの宇都宮隆さんら
他のアーティストをプロデュースされたり、
様々なライブ活動をされています。。
小室さんも昔は真二さんのバンドに在籍しており、
米米クラブさんも真二さんのイベントの前のバンドさんでした。
著名な当時の歌手への楽曲から最近ではイベントプロデューサーとして、
原田真二さんも自身の活動にまた専念されて、
原田真二さん自身のライブや鎮守の杜やディナーショウや
様々なライブイベントが企画されています。
先日は短波ラジオで海外向けのメッセージもたくさん流れて
英語圏での活動が具体化してきました。
環境が整うのが遅かったと思うくらい
原田真二=アイドルのイメージに邪魔をされてきました。
昔を知る人から見れば、
様々な環境が最初の売り方で、ずっとネックになってきていたので、
いかにプロデュースする側が注意を払わなければいけないかを思います。
それは歌手をプロデュースするメディアに携わる側の課題で、
現在の音楽産業の課題です。
原田真二さんのライブイベントには大きく分けて、
アコースティックタイプとフルバンドタイプと、
ユニットタイプと鎮守の杜コンサートとディナーショウがあります。
後はそれに伴う様々なプロモーションイベントと
ファンクラブメンバー用スペシャルイベントです。
どのイベントもとても楽しいです。
そして今年新たに加わったのが国際的な恒久平和を願うイベントです
先日の広島原爆投下の日8月の6日にNHKの昼と夜のTOPニュースで
ニューヨークで歌っていた原田真二さんを見た方も
インターネットのニュースで見られたかたも多いと思います。

大体例年ですと、原田真二さんは春の気配を感じる頃から活動を始めます。
そして、徐々にいろんなイベントが入って来て、
夏になると広島、長崎の原爆投下のピースライブを
日本とニューヨークで行なっています。
そして、秋には大抵大きなフルバンドライブをして、
それから全国のホテルディナーショウツアーをして、
クリスマスコンサートをされて、
カウントダウンライブをされて、ファンのみんなで初詣をして、
一旦休憩に入ります。
それから例年は2月にはファンクラブのスキーツアーに行かれたりしながら、
また春の気配を感じる頃から活動が始まります。
要するにファンとのカウントダウン&初詣が終わって
1,2月はオフタイムで充電期間のようですが
ここ最近は何か絶好調のようでお正月も返上して
年明けすぐに2月のライブのプロモーションが神戸、広島で始まってたり、
1月6日からバンドライブが東京であったり
活動時期が早まってきているので、
ファンも、休んでいる暇がありません。
最近はよくアコースティックライブが行なわれましたが
アコースティックライブとは、
ピアノとギターでアーティストが勝負をするライブです。
私はこの原田真二さんのアコースティックライブも大好きです。
今までは青山円形劇場3DAYSが2〜3年5月あたりに
3日間続けて行なわれました。
原田真二さんが本当に好きな人は定期は買いませんが、3日間通うんです。
メニューも全て違ったので、真二さんも1日ライブが終わると
翌日の曲を練習しなくちゃいけなくて、忙しいんだよなんて
冗談をおっしゃっていて、楽しいライブでした。
地方から来るファンは東京に連泊しています。
また神戸と広島でもアコースティックライブが行なわれて
YUKOもホテルに泊まって旅行がてら行ってきました。
こちらはワナビーズ音楽事務所さんが主催してくだしました。
神戸、広島のアコースティックナイトも、本当に心のこもった
あったかいコンサートでした。原田真二さんの楽しいトークに笑顔のお客さん、
そして、子供たちの真二コールや、子供たちが何か自分が書いた絵など、
様々なものをライブのステージに持っていって、
それを嬉しそうに受け取る真二さん。
そして、八王子の校歌を作って披露するときに感動した子供たちの無垢な様子、
そういう純粋な子供たちの心がたまならく好きだという
真二さんのエピソードや、校歌を披露する際のエピソードを聴いていると
子供のいないわたしにも子供の大切さが理解できて、
まずは自分の周りから気持ちをよくしていきたいなっていつも思います。
天才テレビくん(NHK教育)の中で
たまたまタケカワユキヒデさんという元、ゴダイゴというバンドを
組んでいた方が、放送の中で原田真二さんの「マーチ」という曲を
アレンジして子供たちに歌わせていました。
そこから真二さんが天才テレビくんのエンディングテーマ曲
「僕らのハーモニー」を作りました。
今は「天才テレビくんMAXのサントラ版」として
オムニバスも発売されています。
「僕らのハーモニー」を含むラブソングの新曲もあるミニアルバムも
発売されています。
また他にもゴールデンベストアルバム4として
ポリドールイアーも好評です。
デビュー30周年を記念して六本木WAVEさんから
ニューアルバム「FEEL FREE」も好評発売中です。
そんな影響で最近、原田真二さんのライブは親子でいらしゃるかたや、
子供さんたちが多くて、マーチは特にうけています。
マーチ、30年前に真二さんがトリプルデビューをしてから、
コンスタントに松本隆作品でセールを伸ばして、
ある日突然「OUR SONG」という穏やかな自作のメッセージ曲を
出した後のシングルリリースの曲で、
私は一般のチャートには載っていなかったけど、大好きな曲だでした。
今こうやって、時代や年代を超えて一緒に盛り上がれるのが、